2017年6月24日土曜日

旅人かへらず

西脇順三郎の詩集
「旅人かへらず」

旅に出たまま帰らない

不意に
逢いたくなる人がいる

現在の人には迷惑がかかるから

亡くなっている人に
心の中で逢う

ことが多い
北村太郎
西脇順三郎へ
やっぱり 
いちど戻ろうかな


幻影の人と女

 自分を分解してみると、自分の中には、理知の世界、情念の世界、感覺の世界、肉體の世界がある。これ等は大體理知の世界と自然の世界の二つに分けられる。
 次に自分の中に種々の人間がひそんでゐる。先づ近代人と原始人がゐる。前者は近代の科學哲學宗教文藝によつて表現されてゐる。また後者は原始文化研究、原始人の心理研究、民俗學等に表現されてゐる。
 ところが自分の中にもう一人の人間がひそむ。これは生命の神秘、宇宙永劫の神秘に属するものか、通常の理知や情念では解決の出來ない割り切れない人間がゐる。
 これを自分は「幻影の人」と呼びまた永劫の旅人とも考へる。
 この「幻影の人」以前の人間の奇蹟的に殘つてゐる追憶であらう。永劫の世界により近い人間の思ひ出であらう。
 永劫といふ言葉を使ふ自分の意味は、從來の如く無とか消滅に反對する憧憬でなく、寧ろ必然的に無とか消滅を認める永遠の思念を意味する。
 路ばたに結ぶ草の實に無限な思ひ出の如きものを感じさせるものは、自分の中にひそむこの「幻影の人」のしわざと思はれる。
 次に自分の中にある自然界の方面では女と男の人間がゐる。自然界としての人間の存在の目的は人間の種の存續である。隨つてめしべは女であり、種を育てる果實も女であるから、この意味で人間の自然界では女が中心であるべきである。男は單にをしべであり、蜂であり、戀風にすぎない。この意味での女は「幻影の人」に男より近い關係を示してゐる。
 これ等の説は「超人」や「女の機關説」に正反對なものとなる。
 この詩集はさうした「幻影の人」、さうした女の立場から集めた生命の記録である。



「旅人かへらず」

1

旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水靈にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る
永遠の生命を求めるは夢
流れ去る生命のせせらぎに
思ひを捨て遂に
永劫の斷崖より落ちて
消え失せんと望むはうつつ
さう言ふはこの幻影の河童
村や町へ水から出て遊びに來る
浮雲の影に水草ののびる頃


10


十二月の末頃
落葉の林にさまよふ
枯れ枝には既にいろいろの形や色どりの
葉の蕾が出てゐる
これは都の人の知らないもの
枯木にからむつる草に
億萬年の思ひが結ぶ
數知れぬ實がなつてゐる
人の生命より古い種子が埋もれてゐる
人の感じ得る最大な美しさ
淋しさがこの小さい實の中に
うるみひそむ
かすかにふるへてゐる
このふるへてゐる詩が
本當の詩であるか
この實こそ詩であらう
王城にひばり鳴く物語も詩でない


97


風は庭をめぐり
黄色いまがつた梨を
ゆすり
小さい窓からはいつて
燈火を消すことがあつた


102


草の實の
ころがる
水たまりに
うつる
枯れ莖のまがり
淋しき人の去る


117

雨の降る天をみながら
千一夜物語はあの
「海の男」がすきだ
何か急に立ちとどまり
また考へ出した
それから橋を渡つて町へ行つた
そこは夏が来ていた




129

むらさき水晶
戀情の化石か


145

村の狂人まるはだかで
女郎花と蟋蟀をほほばる


147

庭の隅(すみ)人知れず
岩のほろほろと
こぼれる
秋の日
牧谿の横物をかけ
野花の一輪を活け
靜かに待つ
待つ人の來たらず
水草の莖長き水鏡
女のこころうつる
男は女の影にすぎない
土は永遠を夢みる
人はその上に一時(ひととき)のびる
旅のつる草
莖に夕陽の殘るのみ
草の實は女のこころ
心のかげりは
野邊のかげり



158

旅から旅へもどる
土から土へもどる
この壷をこはせば
永劫のかけらとなる
旅は流れ去る
手を出してくまんとすれば
泡となり夢となる
夢に濡れるこの笠の中に
秋の日のもれる



168

永劫の根に觸れ
心の鶉の鳴く
野ばらの亂れ咲く野末
砧の音する村
樵路の横ぎる里
白壁のくづるる町を過ぎ
路傍の寺に立寄り
曼陀羅の織物を拜み
枯れ枝の山のくづれを越え
水莖の長く映る渡しをわたり
草の實のさがる藪を通り
幻影の人は去る
永劫の旅人は歸らず














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